![]() ↑ヒカルのお腹の中の爆弾は、100回のしゃっくりで爆発してしまう。 ![]() ↑爆発を止めるため、モークに教わった「うちけしの滝」へ来たヒカルは、100回目のしゃっくりと同時に飛び込んだ。 ![]() ↑巨大化した煙ヱ門の火種飛ばしを、ギンガイオーは見事なバッティングスイングで打ち負かすなど、コミカルなテイストは巨大化したあとにも散りばめられていた。 |
ただ、少し経って、僕はあることに気付かされました。それは、番組の客観性担当を自ら任じていた自分が、どっぷりと「ギンガマン・ワールド」に浸りきっていて、尺度の根本を番組そのものに据えてしまっていたこと。それ自体は悪いことではないとは思うのですが、考えてみると僕自身が番組を楽しんでいなかった。ただ一心不乱にソリッドな作品世界の構築を目指すあまり、作り手としての「あそび」を一切持てなかった。これが娯楽作品、しかも子供向き番組であるという事実を、意識しきれていなかったような気がします(余裕のなかった新人の甘えかも知れませんけれども・・・)。 そして、そんな僕の思いを逆に裏付ける形になったのですが、この「恐怖のしゃっくり」は、視聴者には非常に好評でした。 結果的に『ギンガマン』は次の回から以前までのシリアス・テイストに戻り、最終的には当初のコンセプトに沿った、エモーショナルな終焉を迎えることができました。 ただ、僕は「恐怖のしゃっくり」以降、傍目にはそれまでと同様に作業をしながら、意識は若干変わったような気がします。 それは、どんなに忙しい中でも、自分の生活を大切にしなくてはならない、ということ。番組とは、場合に応じて距離を調節しなくてはならない。そうしないと、制作者としての自らの純粋な指向や、客観性をもたらすこころの余裕が生まれてこない。そのことが分かったからです。 『ギンガマン』が終わるまではそれが実行できるだけの時間も余裕も持てなかったのですが、それ以降はすこし、変わった、かな。 虚構への「思い込み」なんかに、生活や番組そのものをリードされてしまっては本末転倒である。僕はそんな当たり前なことを考えながら、今日も番組作りに携わっています。 |
東映 若松 豪 |
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