|最新号|
|vol.01 |vol.02 |vol.03 |vol.04 |vol.05 |vol.06 |vol.07 |vol.08 |vol.09 |vol.10|
|vol.11 |vol.12 |vol.13 |

東映作品はその歴史が示すとおりたくさんあります。その中で一番のお気に入りは?
 と聞かれたら、みなさんはどの作品のどのエピソードを選びますか? 作品の数、エピソードの数だけみなさんそれぞれの熱い想いがあると思います。今回はこの方の熱い想いをうかがいました。
line 第十回 イラストレーター 菅原芳人のチョイス
【profile】
おがわ・とおる 1947年北海道函館生まれ。1972年講談社入社。以来28年間に亘り、月刊「テレビマガジン」の編集に携わる。1990年12月より同誌編集長、現在は「コミックボンボン」編集部担当部長。

仮面ライダー
<作品解説>
放映:1971年4月3日〜1973年2月10日、全98話
一文字隼人・仮面ライダー2号/佐々木 剛
立花藤兵衛/小林昭二
滝 和也/千葉治郎
ブラック将軍/丹羽又三郎
ショッカー首領の声/納谷五朗
ナレーション/中江真司
第84話「危うしライダー! イソギンジャガーの地獄罠」(1972/11/4)
[新米編集者の原点]
「テレビマガジン」は、そもそもが『仮面ライダー』から生まれ、育ったような雑誌でした。『仮面ライダー』がブレイクしたとき、当初連載誌であった「ぼくらマガジン」はすでに休刊となっており、急遽その受け皿として創刊されたのが、「テレビマガジン」だったのです。私が編集者生活をスタートさせたのは、『仮面ライダー』の大ヒットと共に、雑誌も躍進していく最中でした。中軸となっていたのは、もちろん『仮面ライダー』。ブロマイドなどの巻頭企画、新情報を主体とするカラー第1特集、企画色の強い第2特集、「少年仮面ライダー隊新聞」などの1色記事特集、そして連載漫画と、雑誌の3分の1近くを『仮面ライダー』が占めていましたから、編集部のほぼ全員が何らかの形で『仮面ライダー』に関わっていたように思います。
 私が直接担当していたのは、すがやみつる氏による漫画連載でしたが、東映・生田スタジオ始め、撮影現場などにもよく足を運びました。当時の『変身忍者 嵐』や『超人バロム1』などの東映作品も掲載させていただいておりましたから、週3日は現場で半日過ごしていたように思います。『仮面ライダー』には講談社から大島康嗣カメラマンが張り付きで取材にあたっておりましたが、夏現場に行って「暑い」と言えば、「着ぐるみに入っている人のことを思えば、暑いなど言えないだろう!」とどやされ、冬は冬で、石油カンを利用したストーブはあるものの、「我々はお邪魔しているのだから、皆が仕事をしているときに火に当たるのは遠慮しろ!」と教えられたものです。「一番苦労している人を最も大事にせよ!」の方針は、現場中に徹底しており、それは見事なものでした。
 試写取材では、ほとんど毎日のように新宿西口にあった大平スタジオに通っていました。各作品とも毎話、音なしのオールラッシュ試写、セリフ入りのラッシュ試写、完成品の初号試写と3回ありましたので……。『仮面ライダー』については、ほぼ毎週のように石森プロで雑誌編集者を集めてのアイディア会議のようなものまでありました。加藤昇氏を座長に、石森プロからは若手の青柳誠氏も加わり、時には石ノ森先生も顔を出されるなど、にぎやかにワイワイやりあったものです。それだけに共通認識もかなりハイレベルであったせいでしょうか、編集企画については大幅な自由裁量が認められていましたので、苦労は多いものの楽しい編集者生活でした。

line
  次のページ
(C) ISIHIMORI PRO・TOEI