

さて、そんな大高さんだが、ご自身はどんなお子さんだったのだろうか。まずは覚えているテレビ番組から尋ねた。
「昭和34年生まれなんですけど、子供の頃に観ていたアニメと言ったら『巨人の星』とか『あしたのジョー』とかですね。戦隊シリーズが始まった30年前っていうのは、僕は既に高校生でしたから観てなかったですね。『仮面ライダー』が中学校くらいの頃だったので、観たり観なかったりしてましたけど、僕が子供の頃はこういった番組は無かったですから。それこそヒーロー物って言うと…『月光仮面』はもうちょっと前(の世代)だったりするじゃないですか。8歳か9歳くらいの頃にちょうど『ウルトラQ』とか『ウルトラマン』とか円谷プロの特撮物が始まって、もう楽しみで楽しみでしょうがなかったですね。『ウルトラセブン』まで本当に熱心に観ていましたね」
その頃だと東映では『仮面の忍者 赤影』とかが…。
「観てました! 『赤影』は観てましたね。白影が牧冬吉さんでしたね。でも、結構何を観ていたのか忘れてたりしますね。ライブラリーとか観て『あ、これ観てた!』って言う作品はあるんだと思うんだけど。う〜ん、あっ!『河童の三平』とか観てましたよ。怖かったなぁ。後はアニメーションを結構観てましたね」
ほかに好きなキャラクターは無いのだろうか?
「キャラクターが好きだったのは『サンダーバード』かな。1号、2号をプラモデルで作りましたよ。小学校の1、2年の頃ですね。小学校3年生の時に『サンダーバード基地』ってこんな大きいプラモデルが出たんですよ。その当時で、八千円位で絶対手が出ないんですよ。僕の友達がそれを買ってね、すごい金持ちだったんですけど、羨ましくて毎日のように見に行った覚えありますけどね(笑)」
プラモデルを作るということは、手先が器用?
「手先は器用でしたね。作るの好きですね、インドア派で(笑)。今でも何か作るのが好きなんですよ、日曜大工とか、ミシンで子供の服を縫ったり、料理とかも好きですね。パンを作ったりとか。ギター弾いたりとかね。何しろ手作業が好きなんですね。なので、私は呆けません!(笑)」
意外な事実がどんどん出てくる大高さん。逆にますます謎めいていくほどだ。では、俳優になるきっかけは何だったんだろう?
「俳優になろうと思ったのは…長くなりますよ(笑)。大学を受験する時に早稲田の校風というか大隈講堂の建物が好きだったから、それだけで早稲田を受験したんですよ、そんなレベルもなかったのに(苦笑)。それで物の見事に現役の時は落ちたんです。 東京で浪人している時に、うちの兄貴の友達が早稲田の演劇研究会で芝居をやっていたんです。その人の家に遊びに行ったりしたときに、その人が松田優作さんの物まねとかをしてくれるんですよ。これがそっくりだったんですけど。そういうのを見ていると、なんか面白そうだなって思い始めて『よっしゃ! 大学に入ったら芝居やろう』って思ったんです。だから、その人が居なかったら僕は芝居をやっていなかったと思いますね。で、もう一回早稲田を受けようと思って、そこからちょっと勉強しました。それで何とか引っかかったんですよ。大学に受かって4月に演劇研究会に入会しようしたら、その人はもう演劇研究会を辞めて就職活動をしてた(笑)」
物まねということは、コメディの芝居を見て芝居をやろうと思ったのだろうか?
「いやいや、そこまでは考えなかったですね。芝居なんて見たこと無かったですから。浪人の時に『上海バンスキング』(作・斎藤憐)を見たくらいですよ。これもたまたまで。斎藤憐さんのお兄さんが建築家で設計事務所を経営されているんですけど、その事務所でうちの従兄弟が働いていたもんで、そのツテで芝居が見に行けただけなんです。それまで芝居なんて見ようとも思わなかった。だって中学高校と剣道やっていて、体育館の脇で『アメンボ赤いなあいうえお』とかやっている軟弱な奴等を『ふざけるな』って思っていた口だから(笑)
そして、大学の演劇研究会の入会説明会で、僕の隣にいたのが、鴻上尚史(劇作家)だったんです。同じ日に緑色の汚い繋ぎを着たむっさい男が、僕の隣に座っていたんですよ。そこからの付き合いですね。そこからもう27年くらいつき合ってますよ(笑)」
後に一緒に劇団『第三舞台』を立ち上げる事になる、鴻上さんとは最初から意気投合したんだろうか?

「なんだかんだ言って話が合ったんでしょうね。それで演劇研究会の中に小さな劇団があってそこに二人して所属していたんですが、劇団員が増えすぎちゃって。大学2年の秋口、『どうなんだろう? 僕たち。このままここにいても…』と思い始めた時期だったんですよ。その頃に麻雀をしに先輩の家に行ったんですけど、メンツが揃わなくて先輩がもう一人を捜しに行って、僕と鴻上が残されたんです。で、代々木上原の喫茶店で二人きりになったんですけど、しばらく話をしてその後沈黙が流れたときに、僕は何をとち狂ったか『じゃあ、そろそろ腰を上げるか!』なんてことを言ったら、鴻上が『え?』ってことになって、それで“第三舞台”が出来たんです。でも、僕としては軽い気持ちだったんですよ。大学卒業したら田舎に帰る約束を親としてましたから。と言うのもね、僕の死んだ母親が田中角栄の越山会の幹部と従兄弟同士だったんで、早稲田に入学した時点で、田中角栄直筆の推薦状を持って地元の放送局を受ける権利を既に持っていたんですよ。だから、どっちかって言うと芝居をやること自体は、大学時代の思い出みたいなところがあったんです。だから『そろそろ腰を上げようか。劇団作ろうか』って鴻上に言ったのも、大学時代の最後の思い出作りみたいなところが僕的にはあったんですよ。でも鴻上は『よし! プロで頑張ろう』みたいな。思い違いがあったんですけど、大学三年の春に旗揚げしたんです。旗揚げ公演が終わって、僕は就職活動で夏休みに田舎に帰ってたんです。でも、こっちはこっちで第二回公演を準備しているんですよ。僕は『就職活動で田舎に帰るから』って鴻上には言ったんですよ。で、地元の放送局の人事課長にも会って、地元の新聞社の人事部の人にも会って、いろいろお話をして『よろしくお願いします』と言って就職活動が終わって東京へ帰ってきた。帰ってきたから一応鴻上に挨拶しようと思って、演劇研究会のほうへ行ったら、鴻上に『何やっているんだ、早く着替えろ、練習だ。お前がいないと話にならない』って言われて(笑)。結局済し崩し的に第二回公演も出たんですよ(笑)。それで親に内緒で芝居を続けて大学四年になったんですけど勉強もしてなかったから、いざ就職試験を受けても試験の成績が散々だったので、地元の放送局も新聞社も全部落ちたんです(苦笑)」






