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「ご自身が監督なさるようになってから、お好きだった番組を参考になさったりしましたか」と尋ねると、
「ライダーは特にないですねぇ。こだわりという意味では『仮面の忍者赤影』の方がありました。あとね、『巨人の星』。自分の中では『赤影』と『巨人の星』が、ずっと好きでしたね。多分、『巨人の星』の熱さみたいなものが、今の作品に出てるっていうのはあると思うんですよ。こってりした感じっていうかね」
と不朽の名作を2本あげてくださった。特にお好きなのは『赤影』なのだそう。
「僕の中での戦隊の原点は『赤影』です。どう考えても『赤影』ですね。リアルに考えると、赤影が放送されていた当時って僕まだ2歳なんですよ、40年生まれだから。赤影は42年ですからね。で、すぐに再放送したんですよ、44年あたりに。それは明らかに見てました。覚えてます。
僕、神奈川出身なんですけど、七五三の写真でね、『赤影』のお面をかぶって撮ってるのがあるんですよ。白黒なんだけど。祖母なんかが時代劇が好きだったから、一緒になって『赤影もいいねぇ』なんて言いながら見てた記憶はあります。だから、僕の中での戦隊の原点は『赤影』なんです」
今でも様々なグッズやDVDが出るたびに購入なさっていると言うから、『赤影』好きはまさに筋金入りと言えそうだ。
「『赤影』は最初ビデオが出て、次にLDが出たんですけど、どの媒体も買った(笑)。中身は同じなんですよ、でも買った(笑)。この前、『仮面の忍者赤影THE
MOVIE』のDVDが出たんですけど、ちゃんと観ましたよ。スカーフとお面が送られてくるっていうんでね、(パッケージに入っていたハガキに)ちゃんと50円切手を貼って送りましたよ。
持ってるっちゃあ、持ってるんですよ、お面もスカーフも。でも、また微妙に違うじゃないですか、ね(笑)。うちのスタッフにもソフビとか好きな人がいて『監督、赤影の怪獣のソフビありますよ』って言ってくれるから、注文してもらったり。『赤影』だけは今でもそうですね」
そして、それらの『赤影』フィギュアはきちんと監督宅に飾られているのだとか。
「テレビの上に赤影、青影、白影っていうのはいます。それがね、家に帰ると、赤影だけ座りが悪いらしくって時々下に落ちてるんですよ。見るとね、『今日、地震あったな』とか分かるわけです(笑)」
なんだか、意外な活用法をされているらしい(笑)。
そして、もう一つ、大きな影響を受けているのが香港映画なのだと言う。
「特にジョン・ウーのこってりした感じが好きなんです。で、きっと『赤影』と『巨人の星』と香港映画が、自分の中ではいろいろと相まって世界を作っているのかなと」
では、「いつかデカレンジャーでハトが飛ぶ日も来るんでしょうか?」と尋ねると、
「ハトはね、バレバレなんで、それはないんですが(笑)。自分の中で好きなのは、ジョン・ウーの芝居の中でのスローモーションの使い方とか、なにげないところなんです。そういうところは自分の作品でも出ているかなと。無意識にね」
と笑って答えてくださった。
ジョン・ウーの作風は劇画に近いので、『巨人の星』とどこか相通ずるところがあるのかもしれない・・・と言うと、
「そうなんですよ。(ジョン・ウーの作品は)強調するところはスローにして見せるところとか、劇画っぽいですよね。ジョン・ウー自身も日本の漫画や劇画に影響を受けて勉強しているっていうことを言ってますし。
ジョン・ウーの映画を見ると、カット割りが細かいでしょ。ものすごく細かいですよ。でね、クローズアップ撮ったりするじゃないですか。それがね、僕はすごくコミック的だと思うんですよ。変に長回しを使わないで、細かくカット割って。目のクローズアップにズームまで使ってますからね。ズームアップしてズームバックみたいな」
と、同意。さらに、これらの作品から受けた影響について、
「やっぱりね、基本は『赤影』と『巨人の星』とジョン・ウーの世界なんですよ。特に、僕、ロボット戦とか撮らせてもらう時は、今はちょっと違うかもしれないですけど、カーレンジャーの頃とかは『巨人の星』を意識してましたよね。それはバッターとピッチャーの構図というか。例えば、飛雄馬が善のロボットであり、花形が悪のロボットであり怪獣であり・・・っていう。あの緊張感というかね。何かあったら二人が飛び出してきて、ガッとぶつかり合うっていう、そのへんですかね。『巨人の星』って比喩表現がすごく多かったですから。飛雄馬なんか目からビーム出したりしてますからね(笑)。あのへんの影響っていうのはやっぱり大きいですよ」
語る。
ちなみに、お好きだったドラマについてお訊きすると、こちらもいろいろとご覧になっていたそうで、
「個人的には、『熱中時代』の先生編のパート2と、『あんちゃん』というのと、あと『事件記者チャボ』が好きでしたね。水谷豊さん主演の作品が好きだったんですよ。『あんちゃん』が一番よかったですね、人間の感情を描いている感じが。ドラマの構図うんぬんという意味ではなくてキャラクターの性格とかね、こういう人間でありたいなと思ったことはありました。
でも、ドラマの構図とかカット割りという意味では影響を受けたことはなかったですね。どちらかというと、役者を見ていたんですよね、カット割り見ていたわけではなくて」
と懐かしい名作のタイトルを挙げてくださった。 |
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好きだったテレビ番組について、ひととおり伺ったところで、どんな遊びをなさっていたのかも訊いてみた。
「小さい頃は、お人形買ってもらって遊びましたね。古くはタイガーマスク覆面ワールドレスリング戦のね。同時期に仮面ライダーもありましたよ。それでね、リングを買ってもらって遊んでたんですけど、そこで一人でドラマを作ってたんですよ。ウルトラの人形を買ってもらって。ウルトラって巨大な設定じゃないですか。だから、他の人形を使ってアオリの構図とか考えてたんですよね。『どうやったら大きく見えるんだろう』って。こう、机の上に置いたりして。今にして思えば『広角レンズであおってください』っていうようなもんですよ」
という答えから今日の片鱗が覗えるようだ。
もう少し成長して、小学校の卒業文集では将来の夢は『漫画家』と書いたのだそう。
「将来の夢とかね、みんなパイロットとか書くじゃないですか。そこで僕は漫画家って書いてましたね。子供ですからうまく描けないんですけど、広告の裏に漫画らしきものを描いたりしてましたからね、自分なりに。
今にして思うと、憧れてただけかもしれないですけど、なんとなく撮影風景みたいなのをね、描いてるんですよ。なんでだか撮影っていうものを知ってたんでしょうね。雑誌とかで特集されてたのかもしれないですけど、もう“テレビや映画は撮影してるんだ”っていうことを知ってたんですね、きっと。ただね、放送した後、次の回までの一週間で全部撮影してると思ってた、その当時は(笑)。で、そういう空想を絵に描いて自分で楽しんでましたね。その頃から、こういう仕事をしたいって思ってたんでしょうね、今にして思うと」
さらに、中学生になると、夢は脚本家へと変化していったのだと言う。
「テレビのアニメでも、実写でも必ず脚本●●●●ってクレジットが出ますよね。だから、それに基づいてみんなが作ってるんだなって思ってましたね。当時の自分の認識としてね、脚本家が一番偉いのかなと。なんでも脚本家が書いた通りにやってるんだなっていう。セリフを書いて動きも書いて、世界観を一番作ってるのかなと思ってました。一番偉くなりたいとかそういうことではなくて、その世界観を作る人になりたいと思ったんです」
ということは、その後、脚本家から監督へ夢が変化したのかと思いきや、そうでもなかったらしい。
「中学の進路決定の時は、手に職を付けて仕事をしたいと思ってたんですね。で、僕、工業高校に行ったんですよ。機械の仕事をしたいと思って。当時は子供ですから、農業は田舎っぽくて嫌だなって・・・。今にして思えば、農業行けばよかったなと思ったりしてるんですけど、その頃は“男は工業高校に行って機械だぜ”みたいなね、そういうのがあるわけですよ(笑)」
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